昨日、ご近所でこの赤い実を見つけて、思い出した文章がありました。
『ベルゼバブの孫への話』(G.I. グルジェフ著)の序文にあたる「第一章」の中にあった例え話。長いので、お暇な人だけお読みください。
「このトランス・コーカサスのクルド人は、商用か何かで自分の村から町へ出かけた時、市場の果物屋で、いろんな果物が実に見事に並べられているのを目にしました。
なかでも彼は、色も形もこの上なく美しいある<果物>の外観にすっかり魅せられ、どうしても食べてみたくなって、あまり金もないのに、最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べてみようと決心したのです。
それで、彼には珍しく勇気をふりしぼって、脇目もふらず店に入り、その骨ばった指で気に入った<果物>を指差して店の主人に値段を聞くと、主人は1ポンドが2セントだと答えました。
実に美しいわりには高くないと思い、わがクルド人は1ポンド全部買うことにしました。
町での用事を終えた彼は、その日のうちに徒歩で帰途につきました。
夕暮れ時、丘を越え、谷を渡り、否応なしに目に入る偉大なる自然、われらが共通なる母のあの魅了するような懐に包まれ、工業都市が吐き出すもので汚染されていない澄んだ空気を無意識のうちに吸い込みながら歩いてきたので、突然われらがクルド人はきわめて自然に、いくらか食物をとって満足を得たいと思いました。そこで彼は道端に腰をおろし、食糧袋からパンと、とてもおいしそうに見えたので買ったあの<果物>を取り出し、おもむろに食べ始めました。
しかし・・・・・・なんと恐ろしいことか!・・・・・・たちまち彼の内臓全体が燃えはじめたのです。しかし、それにもかかわらず彼は食べ続けました。
われわれの惑星のこの不幸な二本足の生物がこうして食べ続けたのも、ただただひとえに、前に話した人間固有の特性ゆえであり、私のもくろみは、この特性を私が生み出した新しい書法上の形式の基礎に使う、つまりこれを原則化して、現在もっている目的の一つに無事導いてくれるいわば<道しるべ>にすることなのです。だからあなた方はすぐに、もちろんあえて読み進むならの話ですが、このことの意義と意味とを、もちろんあなた方の理解力の程度に応じてつかまれるだろうし、たぶんこの第一章を読むだけでもなんらかの<匂い>を感じ取られるにちがいありません。
というわけで、われらがクルド人が、大自然の懐でのこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を彼の村の者、それもみんなから賢人で経験豊かだと賞賛されている男がやってきました。そして、例のクルド人が、顔全体を燃えるように真っ赤にし、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務を果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の<赤トウガラシ>を食べているのを見て、彼はこう言いました。
「おい、ジェリコ・ジャカス、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはやめなさい」
しかし、われらがクルド人は答えました。「いいえ、どんなことがあってもやめません。私はこれに最後の2セントを払ったんです。たとえ私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」
というわけで、われらが断固たるクルド人は ― もちろん彼がそういう人間であると了解願いたいのですが ― <赤トウガラシ>を食べ続けました。(『ベツゼバブの孫への話』G.I.グルジェフ著 浅井雅志訳 平河出版社 P22-24)
これは、2段組にして750ページ超に及ぶこの長い物語を、期待して大金はたいて買ってしまったがゆえに我慢して最後まで読もうとして苦しむことになるかもしれない読者に対しての警告であり、第1章だけ読んで合わないと思ったら無理して読まない方がいいよというグルジェフなりの親切心でもあります。
ですが、私達って「せっかくお金払ったから」とか思って無理して続けてることや、「せっかく資格を取ったから」と言って、もう自分には合わない仕事を嫌々続けてる人や、せっかく頑張って有名進学校に入ったから有名大学に合格しなくてはと何年も浪人して頑張り続けてる人など、過去に捉われて今ここの感覚・欲求を無視しながら機械的に生きている人ってかなりいますよね?
あなたが食べ続けている赤トウガラシってありませんか?
もし、それが自分に合わないと気づいたら、止めることができます。